対談

【収録 2012年03月02日(金)】

第5回「うまれた絆、つながる未来」 1 / 2

「いわて三陸復興食堂」代表

松本 哲也 氏

1976年生。中学卒業後単身上京。ストリートやライブハウスで歌い続け、2002年ワーナーミュージックジャパンから「翼」でメジャーデビュー。これまでに9枚のCDをリリース。複雑な家庭環境で育った特異な半生に迫るドキュメンタリー番組(NTV「NNNドキュメント04」、NHK「土曜ジャーナル」)など全国放送され話題に。2004年、赤裸裸に綴り心の闇に迫った告白本「空白」を幻冬舎から刊行。幅広い年齢層から反響を得る。同年10月ネパールへ渡航。孤児院や小学校でライブを行い地元新聞や国営テレビなどで大きく取り上げられ、2006年日本ネパール国交樹立50周年記念式典で首都カトマンズの国立競技場でコンサートを行う。  2009年4月、ミニアルバム「REAL」を発表。それを引き下げ初の全国ツアー(青森から九州まで全25カ所)を決行。6月、岩手県から「いわて文化大使」を委嘱される。  亡き母をモデルにした映画「しあわせカモン」(Cast:鈴木砂羽、石垣佑磨、大和田伸也、丹波義隆、今井雅之、浅野和之…)の原作と音楽を担当。岩手県や浜松映画祭などで上映される。  2011年4月、岩手県民会館でコンサートを行う。東日本大震災の影響に反してチケットは全席完売 。被災区域からもたくさんの観客が駆けつけた。  現在移動式エンターテーメント一体型炊き出しキャラバン「いわて三陸復興食堂」の代表を務めながら、音楽活動と共に被災区域での支援活動を積極的に行っている。

土方 剛史 氏

大小30超の支援団体とミーティングを定期的に開催し、情報交換をしながら支援活動を行う。また、被災地の宿泊施設供給不足に取り組む企業のプロジェクトにも参加。震災後1年はサラリーマンをしながら活動していたが、「被災地に入る時間をつくりたい」と今春、会社を退社した。

未曾有の大地震、東日本大震災が起こった2011年3月11日から、1年以上が過ぎました。2011年5月、私が初めて被災地を訪れ出合ったのが、被災直後から現地で炊き出しを行っていた「いわて三陸復興食堂」の皆さんでした。 代表の松本哲也さんは、ミュージシャンでもあります。だから、「いわて三陸復興食堂」には、心を満たすための歌や音楽もあるのです。彼の紡ぐ言葉、奏でるメロディーを聴いていると、音楽の持つ癒しの力に感動します。まるで、中世の吟遊詩人のように、人の心、地域の心を届けることのできる人だと感じています。
そして土方さんは、私の数少ない年下のお友達の一人です。「いわて三陸復興食堂in代官山」は彼の力なしには成しえなかったと思います。心からの親しみを込めて“いいやつ”であり、同時に生きていく強い力を持っている人でもあります。
分かち合える家族や友人と笑って過ごす老後…お二人には、そんな幸せを願っていますし、彼らならきっと手に入れると確信しています。 同時期に、時間(年齢)と空間(地域)を越えて出合ったお二人との対談を是非、ご一読ください。

 

 

3人の出会い

川井:

本日は、奈良までありがとうございます。

 

松本:
こちらこそ、ありがとうございます。はじめて来ました、奈良。

 

川井:
そうなんですか。鹿も初めて見ました?

 

松本:
鹿もはじめて。あんな普通にいるなんて!

 

一同:
(笑)

 

松本:
びっくりしました、本当に。噂では聞いていましたけど。

 

川井:
さっき、奈良に流れている時間が違うとおっしゃっていたでしょ? ゆっくりしているって。

 

松本:
ええ(笑)。ちょっと近いかもしれないですね、岩手に。

 

川井:
よく言われるんですよ、奈良時間って。
奈良の鹿は横断歩道をテクテクテクと歩くじゃないですか。 だから、車は鹿に合わせて止まらないといけない。

 

松本:
ほお。鹿が一番偉いんですね。奈良では。

 

川井:
そう! 神様の使いですから。

 

松本:
じゃあ僕、鹿と名刺交換したほうが良かったですかね。

 

一同:
(笑)

 

川井:
土方さんとは、私が飯田泰之さん[*1]に誘っていただいて、初めて被災地に伺ったときに初めてお会いしましたね。

 

松本:
僕も覚えていますよ。土方さん、すんごい怪しい人だった(笑) 初めて見たときは、もう「何か怖い人来た~」って思いました(笑)

 

土方:
飯田さんに「ちょっと用事があるから」って急に呼び出されて。何も分からずにドライバーをすることになったんで、どうすればいいんだろうなぁって、おろおろしていましたね。

 

川井:
土方さんにお会いする直前まで、私は飯田さんと民主党の一年生議員の方々に押しかけてって、「復興増税[*2]なんか、やってる場合か!?」と働きかけていましてね。

 

土方:
そういう話を車の中でしているわけだから、僕はずっと緊張のしっぱなしでしたよ。政治家の名前が、バンバン出てるわけですよ。僕が事故ったら大変なことになるなと…。

 

川井:
そんな人たちだったから、めっちゃ怪しかったでしょ?

 

松本:
ええ、怪しかったですね(笑)

 

いわて三陸復興食堂のこと

川井:

松本さん、復興食堂の代表としてよくここまで頑張ってこられましたよね。

 

松本:
ありがとうございます。でも、全然苦にならないんですよね。復興食堂の活動も、歌うことも。

 

川井:
東日本大震災があった5日後には、被災地支援に向われていますよね。初めは毛布を配って歩かれたそうですが、寒かったでしょ?

 

松本:

寒かったし、行ってる僕らも食い物がなくて…。 今復興食堂の店長をやっている下玉利(しもたまり)さんと2人で活動していたんですけどね、避難所から食糧をもらったりするのは絶対いけない、とにかく自分たちの分は何とかしようって話していました。カップラーメンを大量に積んでいって、どうにかしのいでいました。

 

川井:
平日は盛岡で働いて、土日は毎週被災地に行っておられたじゃないですか。ほとんど一年間、休みがなかったんじゃないですか?

 

松本:
ないですね。 火曜・水曜に皆で集まって打ち合わせをして、木・金で手分けして買出しやトラックへの積み込みをして、土曜日の朝出発。そして土・日は復興食堂を開催するっていうスケジュールでしたからね。週の半分以上は復興食堂での炊き出しのことに費やしていましたから、自分の仕事は全然できていなかったですね。うん…みんなそうだったと思います。

 

川井:
私たちが5月に初めて行ったとき、2012年には「復興の絆キャラバン」として「三陸に仕事を!プロジェクト」と共に、再度京都を訪問し京都市長表敬訪問と三条通商店街で出店、奈良では奈良県知事表敬訪問と橿原公苑で行われた「奈良食祭2012」にも出店されました。自分たちで何とか立ち上がろうとされている皆さんに出会って、この動きを東京の人だとか関西の人に知って欲しいと思ったんです。[*3]それは、「災害って他人事ではない!」とすごく思ったからなんですよね。

 

松本:
災害はどこで起きるか本当にわからないですよね。いつ自分が被災者になるか。

 

川井:
だからこそ、皆さんが立ち上がっていく様子を、私たち自身がしっかりと受け止めて、教えていただく気持ちでかかわっていく必要があると思ったんですよ。

 

松本:
僕は逆に、支援の仕方や、人の心のケアという部分で、阪神・淡路大震災や中越地震のとき皆さんはどうしていたのか、勉強したいという気持ちがありました。
こちらはまったく意図していなくても、すごく傷つけてしまったり、余計落ち込ませちゃったりしてしまいますから…。 だから、こうして関西に呼んでいただいたときは、できるだけみなさんからいろんな話を聞いて勉強したいなあ、と思っています。

 

川井:
阪神・淡路大震災で被災者だった弁護士の先生と、一緒に岩手に入って復興食堂を見に行ったときにね、「どうしてあのとき、復興食堂みたいな事業がなかったのかなぁ、あのときにこんな事業があったら良かったのになぁ」って、ずっと泣いていらっしゃいました。

 

松本:
そうなんですね…。無かったんですかね? ホントに。

 

川井:
飲んで歌ってという活動は身近になかったのではないかと思います。だからこそ、復興食堂の「お腹は空いているけど、冷え切った心を歌で温めていこう、心だけでも満たそうよ」っていう活動が、彼の心にはすごく響いたのでしょう。

 

松本:
こんなときに歌を歌うなんて不謹慎だとか、笑うなんて不謹慎だとかじゃなくて、やれることをやればいいですよね、精一杯。何かやれることはあるのにやっていないことが、きっとたくさんあるんだろうなぁって、僕は今でも思っています。

 

川井:
ほんと、そうですね。土方さんはどうですか? あれ以降ずっと被災地とかかわってこられて。

 

土方:
僕は復興食堂にかかわることができて、感謝の気持ちがすごくあるんですよ。 昨年の5月に初めて被災地に入ったときは、漠然と、支援活動をしようと思っていました。何かをしてあげて、自分たちなりの支援の形を作れればいいなぁと思って入ったんです。でも実際、被災地に入ったら、自分たちで何かできる規模の状況ではなかった…。
まず車で釜石に着いたとき、自衛隊の皆さんが活動している姿が見えました。そこから車内は無言でした。皆、何かしようと思って入ったけど、何もできないほどの状況に直面して、言葉を失ったのでしょうね。 そういう心境だったけれども、とにかくいろんな人と会う中で、復興食堂の皆さんと出会ったんです。
復興食堂を支援させてもらうことによって、逆に僕らは「支援することができた」のではと思っています。

 

川井:
本当にそうですよね。

 

土方:
ボランティアセンターを通して入った人たちが、必ずしも自分がやりたい支援に携われたわけではないと思うんです。でも僕は自分が本当に「いい活動だな」と思ったところを手伝わせてもらえたので、感謝しています。

 

川井:
さっき、いろんな人と会ったとおっしゃいましたけれど、決して闇雲ではなかったんですよね。飯田先生がしっかりとキャッシュフォーワーク[*4] の方々とコミットされていて、正確な情報を取っておられたからこそ、復興食堂までたどり着けたのだと思います。 現地に入るまでは、被災地の方や学者の方と、メールでいろんな話をしていましたが、ある時被災地の方がこんなことをおっしゃったんです。
「被災地の避難所では、自殺者も出ているんですよ」と。「机上の政策はいいから、そういう状況の中で何できるのかということを確認して、議論してください」とね。
それで、飯田さんと「まず、行こう」という話になりました。そういう経緯があったので、周りの人たちの状況を聞いた上で、相手を傷つけないような形で入っていこうという気持ちがあったように思います。

 

土方:
振り返ると、本当にいい出会いでしたね。

 

川井:
頑張っている人にまた会えたな、日本も捨てたもんじゃないな、と私は思っているんです。
どうですか? 岩手にいらっしゃって。

 

松本:
皆さんが心をこっちに向けてくれて、大変な思いをしながらも岩手に入ってきてくれて、直接会ってくれて、こうやって支援もしていただいている。この一年復興食堂をやってきましたが、やっぱりそういう人たちがいなかったら、ここまでのことはできていなかったかもしれない。地元の人間だけでは頑張りきれなかったかもしれないと思います。
もちろん被災された方が喜んでくれるっていうのは嬉しくて、それが一番の勇気になっているんですけれど、外から応援してくれる方の気持ちがなかったら、どこかで自分は折れちゃってたかもしれないですね。

 

[*1]飯田泰之(いいだ・やすゆき)

=※シノドスより
1975年生。エコノミスト。専門は経済政策・マクロ経済学。東京大学大学院経済学研究科満期退学。駒澤大学経済学部准教授・財務省財務総合研究所客員研究員。主な著作に『経済学思考の技術-論理・経済理論・データで考える』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(筑摩新書)、『脱貧困の経済学』(共著、自由国民社)など。

 

[*2]復興増税
=東日本大震災からの復興費用を賄うための臨時増税。

 

[*3]
=2011年には東京・代官山(iスタジオ)で県外初出店を果たし、続いて7月には京都・西陣織会館(「京の七夕」期間中)にて関西初出店されました。
2012年には「復興の絆キャラバン」として「三陸に仕事を!プロジェクト」と共に、再度京都を訪問し京都市長表敬訪問と三条通商店街で出店、奈良では奈良県知事表敬訪問と橿原公苑で行われた「奈良食祭2012」にも出店されました。

 

[*4]キャッシュフォーワーク
=一般社団法人キャッシュ・フォー・ワーク・ジャパン (以下、公式サイトより引用) キャッシュ・フォー・ワーク(Cash for Work, 以下CFW)は、日本では「労働対価による支援」と訳されます。被災された方々みずからが復旧・復興のために働き、対価が支払われることで復興を促す支援プログラムのことを意味します。