片倉もとこ先生と初めてお会いしたのは、国立民族学博物館でした。
当時は国際日本文化研究センターの所長を務めておられ、堪能な英語で海外からの研究者に質問をされておられたのを、尊敬とあこがれを持って見ているだけの遠い存在でした。片倉先生はそんな私に気軽に話しかけてくださり、とぼとぼ道を歩いているところをタクシーに乗せてくださいました。
私が、奈良に住んでホテルを経営していることがわかってからは、ことのほか心遣いくださり、奈良県人会等でお会いするたびに気にかけてくださり、楽しくお話しできる間柄になりました。それはひとえに、片倉先生の飾らない、分け隔てのない人柄に甘えさせていただいていたのだと思います。
かつて女性の社会進出が遅れている日本の中で、大使夫人という大役をこなしつつ、研究者としても研究機関の経営者としても大きな業績を残された方でした。外交官の妻、まして大使夫人ともなれば、日本社会の妻以上に職業として「パートナー」としての大きな役割を担わなければなりません。片倉先生は、同時にいくつの役割を果たしてこられたのか、私には想像ができないくらいです。 そのような片倉先生が今までどれほど頑張ってこられたのかを、先生の著書『旅だちの記』(中央公論新社、2013年)を読んで、改めて知ることとなりました。頑張って来られたからこそ片倉先生が送ってくださる著書は、いつも「ゆとろぎ」(=ゆとり+くつろぎ-りくつ、という意の、片倉先生が「ラーハ」にあてた造語)がテーマでした。私にも「もっとゆっくりしーや。」といつも気遣ってくださいました。
そんな片倉先生に「浜田宏一先生をご存じですか?ランチご一緒しませんか?」とお声をかけさせていただいたのは、些細なことがきっかけでした。今でこそ、アベノミクスの生みの親として大活躍の浜田先生ですが、当時は「このままでは日本は大変だ。少しでも多くの人に話を聞いていただき、日本経済をなんとかしなくては。」と、奮闘されておられたときでした。そんな浜田先生に、どこかで気分転換していただけないか?と考えたとき、片倉先生の優しいお顔が浮かんだのです。お二人は、小泉内閣時代に国のシンクタンクの所長を務めておられたので、分野は全く異なるけれど、どこかできっとご面識があるだろう、少しお誘いしてみよう。そんなほんの軽い気持ちからでした。
しかしそれが驚きの偶然をうんでいました。三人でパークハイアットホテルの「梢」でランチをゆっくりといただきながらお話をしていると、実はお二人は同じ高校の同窓生で、高校時代は音楽を通じて良いお友達だった、とおっしゃるではないですか!その場で初めて聞かされて大変驚いたのを覚えています。でも偶然ながらも、何十年の時を超えてゆっくり楽しいお話をする機会をつくれたことは、ほんの僅かでも片倉先生への恩返しになっていたのかなあ、と今しみじみと思います。
今回の対談はずいぶんと前のもので、しかもほんの僅かです。当時から片倉先生はお疲れになっていたことと、この対談が行われた奈良から戻られた直後から病に倒れられた片倉先生のご承認をいただくことができなかったため、時間がかかってしまいました。
しかし『旅だちの記』を読んで、私はテープの書き起こしについて、ご主人・邦雄先生のお許しを得て、先生からのメッセージを世にだしていくことを決意しました。なぜなら、対談のときに片倉先生がおっしゃっていた次の言葉が、どうしても記憶の中に強く残っていたからです。
「川井さん、人の話を引き出すのがうまいねぇ。こんな話めったにしたことがない。」
そのお話とは、片倉先生が子供時代だった戦時中、ご家族と上海から奈良へお戻りになるお話でした。ああ、先生はあの世とこの世の間を行きつ戻りつするような大変なご経験を子供時代になさったのだ。それは「真に生きる」という本質を得られた瞬間のお話だったのだ。と感じた内容でした。その大切なお話を世の中にお伝えすることは私の務めだろう、と思いました。‘片倉もとこ’という素晴らしい方のふるさとである奈良にいるものとしての務めだろう、と。
片倉先生にとって、奈良は単なる「ふるさと」を超えて「還るところ」であったと思います。この対談では、私の経営するホテルアジール・奈良、そして、奈良というところが、全ての人にとって「還る場所」となるような宿泊業を目指しなさい、そういうメッセージを先生から託されたのではないかと感じています。
片倉先生、本当にありがとうございました。 きっと、あの世で河合隼雄先生と楽しく語らっておられることでしょう。
心から、ご冥福をお祈りします。
一人旅について
- 川井:
- 先生、本日はわざわざ奈良までお越しいただきありがとうございます。先生は旅がお好きなんですよね?あちこちに行かれているでしょう?
- 片倉:
- そうですね。私は特に一人旅が好きなんです。今日も(自分の秘書が)体のことを心配してくれて、一緒に行きましょうとか言ってくれたんですけど。でも来てくれたら一人旅にならないから、一人で奈良まで来たんです。
いつあっちへ行ってもいいように、川井さんや関西の友達みんなに会ってくるから、と言って。
- 川井:
- 先生、そんな寂しいことを言わないで。毎年この時期は来るわよっておっしゃってください。
- 片倉:
- ああ、そうね。それもいいね。でもそんなこと言ったら、あの世に行ってもずっと来るかもよ。べつに幽霊になって来るわけじゃなくて、ちゃんとこうして洋服を着て来るから(笑)
- 川井:
- 今回は毎年国立博物館でやっている正倉院展[*1]の時期には外れていますけど、もしその時期に来ていただいたら、ゆっくり見られるようにしますので。私のところが国立博物館のスポンサーになっているので、正倉院展の開催前日の特別会員セレモニーのときに入れてもらえるんです。
- 片倉:
- いいね。それは知らせてください。ぜひ行きたいです。実は正倉院展、前々から行きたかったんだけど、通常開催のときはすごい人なんですよね?私、ああいう人混みに行くのがこのごろ怖いの。実は先日ヘルニアになったのよ。それで怖い。しかもこの夏には、主人がひどく体調をくずして私自身まで看護疲れが出てしまったんです。だから私、痩せたでしょう?
- 川井:
- ええ。夏にお会いしたときから比べたら。
片倉:
- 夏はまだ今より元気でしたからね。でも、あのときでもせっかく川井さんがごちそうしてくれたのに、あまり食べられなかったんですけどね。でも今日は、川井さんもお忙しいだろうからと思って「わざわざ迎えに来てくれなくてもタクシーで(ここまで)行くわ」とあなたの秘書の方にお電話したんです。そしたら体を気遣ってくれたのか「いやいや、迎えに行きますから、(近鉄奈良駅前広場の)行基地蔵の横で待っていてください」って言っていただいて。でもおかげで、行基さんの横で待っていると、様々な人がデートの待ち合わせをしているのが見れて、自分も待っている気分になりました。たまにはそういうのもいいもんだなあ、と楽しい思いをしましたよ。
- 川井:
- すみません。お待たせしたのと違いますか。
片倉:
- 違う、違う。やっぱり私は、パソコンを担いだりしているもんだから、荷物がいっぱいになってしまうので、ありがたいことだったわ。
- 川井:
- 東アジアに旅行にいらしたときも、だいたい一人で行かれてるんですか。
- 片倉:
- うん。いつも一人です。私は人とぞろぞろ行くのは嫌なんです。「(一緒に旅行している)あの人は幸せかな、この人はどうかな。」と変に気を使って、気疲れしてしまうんです。そしたらもう、自分が旅をしているという感じにならないんですよね。そんなに気を使わんときなさい、と言われるんですけど、これは性分ですね。主人が外務省にいたから、人をもてなすとかずっとそういう商売をしていたからでしょうね。
- 川井:
- 大韓航空機爆破事件(1987年 アブダビ発バンコック沖)があったとき、ご主人は大使館に勤務されていたと聞いたんですけど。
- 片倉:
- そうそう。大変でしたよ。そこで網にかかった金賢姫の事件も、湾岸危機(1990年)、イラクのあの240人の人質のときも、えらいことでしたわ。そのときは、私も外務省の奥さんとして行ってましたし。
- 川井:
- (先生も)大使夫人として赴任されていたわけですよね。
- 片倉:
- そう。だから、2足のわらじだったんですよね。
そのせいか、梅棹忠夫[*2]という先生が、よく「奥さんをちょっと借りたいんだけど」と言って来られることがありました。
- 川井:
- 梅棹先生がですか!
- 片倉:
- 梅棹先生が「妻無用論[*3]」というのを書いているのを知っていますか?それで当時の主婦から総スカンを食らったみたいなところがあるんですけど、だけどそれは本当のことだったんですけどね。
私が寄稿した『梅棹忠夫とは何者だったのか?』[*4]という本の特集にも書いてありますけど、女性の自立に先見の明があった先生が、私を「主婦」から「イスラム研究家」に引き上げてくれたんです。でもそのとき、私のところに来ないで主人のところへ先に電話して「お宅の奥さんをうちの西のほうにある研究所の方へちょっと出張させていただけませんか?」とおっしゃったんです。「私が外国に行くときは、代わりに奥さんに研究をしていただくということで、そちらに出張してもらうということにするから」と。
- 川井:
- 要するに日本にいるときは研究家として関西に来てくれ、ということですか?
- 片倉:
- そうそう。
- 川井:
- 国内にいるときは。
- 片倉:
- いや、外国へ行っているときも、結局ずっと奥さんをやっていられなかったんですよ、私も。
- 川井:
- 前もおっしゃっていましたよね。夜中に起きて一生懸命論文を書いているとか。
- 片倉:
- そうそう。私の最後の著書『やすむ元気、もたない勇気』[*5]の中に外交官の奥さんのことをちょっと書いておいたんですけど。両方やっていたときかな。
- 川井:
- 2足のわらじをずっと履いてこられたんですね。
- 片倉:
- いや、3足ぐらいかも(笑)
[*1]正倉院展
=正倉院宝物は通常時、非公開であるが、1875~1880年に奈良博覧会の一環として、東大寺大仏殿回廊で、一部が一般に公開され、以降、2008年に第60回を迎えた。開催期間は約2週間程度。2001年以降、主催機関である奈良国立博物館が独立法人化をし、メディア露出効果で観覧者数が特に伸び毎年多くの見学者を集めている。
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[*2]梅棹忠夫
- =(うめさお ただお、1920年)京都市うまれ。民族学者、比較文明学者。京都帝国大学理学部卒業、理学博士。日本における文化人類学のパイオニア。1949年から65年まで大阪市立大学理工学部助教授、1965年から69年まで京都大学人文科学研究所助教授、1969年から74年まで同教授。国立民族学博物館の創設に尽力し、1974年から93年まで初代館長、退官後は同館顧問、名誉教授となる。総合研究大学院大学名誉教授、京都大学名誉教授。 1988年に朝日賞を受賞。1991年に文化功労者。1994年に文化勲章、1999年勲一等瑞宝章を受章。2010年没。
[*3] 妻無用論
- =梅棹忠夫氏が、1957年「第一次主婦論争」に「女と文明」(1988年に中公叢書)にて発表。家事労働の将来像を展望し、家事専従者は不要になって、女性が社会で働く世の中が来るとした。当時は、大きな社会的な論争になったが、50年後の今日、梅棹の予測は、ほぼ的中しているといってよい。
[*4]「梅棹忠夫とは何者だったのか?」
- =『HUMAN 知の森へのいざない vol.01』(出版社:角川学芸出版、2011年)の中で組まれた特集記事。
[*5]『やすむ元気、もたない勇気』
- =(祥伝社、2009年)