対談

【収録 2012年10月06日(土)】

第7回「還る場所・奈良」をめざして 3 / 3

湘南高校の思い出

川井:

でも、奈良にいらっしゃった先生が湘南高校に行かれたいきさつというのは、なんだったんですか?

 

片倉:
父親が住友銀行に勤めていて、転勤したんです。最初の支店長をした時で。確か横浜支店だったかな。それで、鎌倉に住友銀行の社宅があったので。当時は、学区制というのがあったんで、引っ越した先からは湘南高校へと行かないといけないようになっていました。

 

川井:
異動になられたんですね。

 

片倉:
そう。それで鎌倉に。だから、湘南高校だけなの、3年間ちゃんと行ったのは

 

川井:
浜田宏一先生[*7]と一緒に卒業された思い出の湘南高校ですね。

 

片倉:
そう、思い出の湘南高校(笑)。あとは小学校も転校だし、中学の3年生のときに鎌倉に来たから、中学も2年生は教育大附属だったけど、最後の1年は違うところだったし。
でも実は、浜田さんは1年上でおられたのですけど、かすかにしか覚えてないんです。

 

川井:
浜田先生はすごくよく覚えておられましたよ! 別の機会に「片倉先生のことご存じですか?」と聞いたら、「ああ、片倉さんね!」とか言って。「旧姓は新谷さんと言って、とってもかわいくてチャーミングなお嬢さんでね」って。

 

片倉:
そうなんですか。

 

川井:
片倉先生だけですよ!あの浜田先生をそんな風に言えるのは(笑)。東大の文一を、というか、法学部を卒業されたときに、外交官試験と、弁護士の司法試験と、国家公務員の上級職の三つ全部受かった人なんですから。

 

片倉:
秀才だったらしいね。

 

川井:

そう。だから、もちろん当時の大蔵省にもすぐ行けるぐらいの序列で受かっておられたし、なおかつ司法試験も両方受かって。なおかつそれを蹴って経済学部の大学院に進まれたので、浜田先生は、ずっと経済学の中の研究分野が、法と経済学なんです。法律が経済にどのような影響を及ぼすかという。

 

片倉:
川島武宜[*8]に会ったから、とかもどこかの本に書いておられたね。

 

川井:
ああ、そうかもしれないですね。

 

片倉:
川島さんは私も一緒にお食事をさせてもらったことがあるんだけど、いい先生ですね、立派な。法と経済学をうまく併せた研究をされてますよね。

この前、その湘南高校に講演をたのまれて、行ってきたんです。その講演のとき、 すごくよく笑っている人がいるなと思っていたら、その人が校長先生で。そんな気さくな方なのに、後からお話を聞くと、実はすごい方でした。前任は横浜国際高校で開校のときから赴任されていて、これからの時代はイスラーム世界を抜きに国際問題を語ることはできないと考えられて、外国語の選択科目に「アラビア語」を導入されたそうなんです。その校長先生が私の著書の『イスラームの日常世界』[*9]を「ぼろぼろになるまで読みました」と言ってくれて。ほんと嬉しかったですね。

 

川井:
そうなんですか。

 

片倉:
それで、高校の生徒たちが講演の感想を学校から書かせられたんですね。それを送ってくれて。見たら、みんな、なかなかポイントをちゃんと分かっているわけ。会場では「質問は?」と言っても誰も質問しなかったのにね。アメリカだったら、何を質問したらいいのか分からなくても手を挙げるのに、日本の文化は、昔と変わらずみんなの前ではあまりしないなあ、と。それでいて、後からこっそり一人で来ては、ちょこちょこと聞いたりするんですよね。

 

川井:
面白いですね。

 

片倉:
そこの講演で、私は人生でいっぱい間違いをしているけど、湘南高校に入ったのも間違いだったと湘南高校の生徒の前で言ったんです(笑)

 

川井:
ええーっ!なぜなんですか(笑)

 

片倉:
なぜかいうと、私はピアノをやりたかったんです。音楽をやりたかった。そのころ井口基成先生[*10]に習いに行ってたりしましたしね。
でも、たまたま模擬試験がよかったので東大を受けろとか言われちゃって。私は一夜漬けが得意なだけだったんですけどね(笑)
それで、名門というか、進学校だった湘南高校に進学することになったんです。
でも、それが間違いの始まりだった。何よりも、入ったらね、女の子がほとんどいなかったんです!なんだか、男子トイレに迷い込んだみたい。気持ちが悪いというか、怖いというか。だからいつも下ばっかり見ていました。部活ではピアノをやりながら、陸上部に入ったんですけど、陸上部の黒い土とピアノの鍵盤しか見てなかった。上を見ても、みんな同じような黒い制服を着た変な男がいるばっかりでしょう?

 

川井:
女の子は数人ですか。

 

片倉:
そうそう。何しろ文部省が男女共学にしなさいとか言ったらしいんです。だけど湘南高校は、女なんか入れたくなかった。だけど成績順に上から取って、女が入ってきたらしようがないから取るということにしたら、結局あまり人数がいなかったのよね。でもそれに私が引っ掛かってしまった。

 

 

家族と過ごした上海時代

 

川井:
湘南高校にいらしたのは終戦直後ぐらいの時ですよね。

 

片倉:
そうそう。

 

川井:
お父上は、戦前から住友銀行にお勤めだったんですか。

 

片倉:
そうです。上海に長いこといました。その影響か、すごくハイカラな父親でしたね。そして亭主関白な人でした。あまり好きじゃなかったんですけどね(苦笑)

 

川井:
上海ということは、財閥解体になる前ですか?

 

片倉:
前です。ずっと昔の話です。私は全然知らないんですけど、私の祖母、つまり父の母ですね、その祖母が危篤だというので上海から父が帰ってきました。そのときに日本で母と見合いしたんです。母は、最初は「こんな人とはちょっと」と思ったらしいのだけど、母の父、つまり私の祖父が、母は政子(まさこ)というんですけど、「マアちゃん、いいやんか。わしも上海にいっぺん行ってみるわ。」とか言って薦められたらしいです。
また父の方は「もし(結婚が)いいんだったら、明後日また上海に発つから、神戸港まで送りに来い。ノーだったら送りに来なくていい。」なんて言ったらしいです。

 

川井:
分かりやすいですね。

 

片倉:
分かりやすいけど、なんか上から目線だな、と思うんですけどね。

 

川井:
確かに(笑)

 

片倉:
それで、結局結婚して。その後、私が生まれてすぐに母は私を連れて上海に行ったんです。だから私は上海の小学校に行っているんですね。

 

川井:
当時の上海の小学校は、あちらこちらで日本人ばっかりの小学校があったんでしょうね。

 

片倉:
戦時中はありましたね。戦時中に(上海に)行っていたんですよ、私たちの家族は。

 

川井:
終戦前に日本に引き揚げられてきたんですか?

 

片倉:
そうです。当時の中国人というのは今よりもっとあからさまで、戦争の日本の雲行きが悪くなってくると、中国人は途端に日本人に対して反感を示すようになったんですよ。それで父が、これはもう日本に帰さないといかんぞ、と。父は上海に残ったんですが、生まれたばっかりの弟をおんぶした母と妹と私とで、船で帰ってきたんです。でもその帰りの船が、当時は敵国だったアメリカの潜水艦に追われていますと言って、日本ではない方に行くのよ! 怖い怖い。

 

川井:
命からがらじゃないですか!それはお幾つぐらいのときですか。

 

片倉:
私が小学校だったから、八つか九つかな。本当に怖かったよ。毎日救命胴衣を着けてね。弟はまだ1歳にもなっていなかった。毎日、弟は母にずっとおぶわれているわけなんですけど、その当時の私の仕事は、その弟の足を引っ張ることでした。そしたら弟がぎゅうっと動く。それを「お母さん、動いているよ」と母親に報告してたんです。

 

川井:
生きているかどうか確かめていたんですね。お乳がもう出なくなってきていたんですか。

 

片倉:
出なかった。だって、船の上で何もご飯が出ないんだから。

 

川井:
何日乗られていたんですか、上海から日本まで。

 

片倉:
あんなところ、今だったら1日で帰れるところでしょう? それが、敵の潜水艦が来たとかいって、あっちこっちに逃げまわったり、島影でじっと隠れているわけよ、何日も何日も。それでまた動きだしても、どっちに動いているのかさっぱり分からんしね。全体でどのぐらいかかったのか、わからない位長い航路でした。もう食料はないし。水兵さんは(逃げ出すための)海に飛び込む練習とかしたりするし。 おかげで、奈良の、高畑にあるおばあちゃんのうちに着いたころには、もう栄養失調。

 

川井:
それはそうでしょうね。

 

片倉:
いまでも弟は言っているよ。「僕は栄養失調だったから頭が悪いんだ」と(笑)

 

川井:
ああ、そうですか。苦労なさったんですね、小さいときにね。

 

片倉:
そうですね。そう言われればそうですね。

 

川井:
家族全員、最後は揃われたわけですか。

 

片倉:
もう父と母は、(その上海で別れたときは)これは永久の別れだと思っていたらしいんですよ。それで、父は最後の晩餐に、子ども心にも「こんなおいしいものがあるんだ」と思うぐらいのおいしい中華料理を食べさせてくれたのよ。お肉のからっと揚がったものとか、おやつとか。本当においしかった。

 

川井:
まだ、その時期は上海には食べ物があったんですね。

 

片倉:
あった、あった!そのままいた方がいいぐらいの天国だったけど、(中国人の態度で)どんな目にあうかもわからないし、父はこれはもう駄目だと思ったみたいで。
その父が別れる前に「おまえたち、船でもちゃんと食わせてくれるはずだけど、これを船の中で食べろ」と言って、きれいなビスケットをくれたんですよ。お姫さまみたいな格好をした女の子が鳥と話しているような絵が書かれたきれいな缶の。

 

川井:
それを船に持って入れと。

 

片倉:
そう。父が差し入れしてくれたんですね。結局、船ではそれしか食べるものがありませんでした。そのときはあまり深く考えなかったけど、いまから思ったら、もしかしたら父はわかっていたのかも。

 

川井:
でも、幾らかかっても二日ぐらいしかもたないですよね。1缶だったら。

 

片倉:
そうそう。そうだったのよ。幾らかかっても二日。それが結局帰るのに何日間かかったのかな?上海からの帰路は本当に怖い経験でした。 
川井さん、話を聞き出すのがうまいですね(笑)!こんな話は今までめったにしたことがないんですけどね。 川井さんがうまいこと話を引き出してくれるから、 今日はついついいつもより色々と話しちゃいましたね(笑)

 

川井:
いえいえ。そんなことないです。 貴重なお話を多数していただき、とても参考になりました。 本日はお疲れのところ、お時間いただきありがとうございました。

 

[*7]浜田宏一

=(はまだ こういち、1936年1月8日 – )。日本の経済学者。専門は、国際金融論、ゲーム理論。東京大学名誉教授、イェール大学名誉教授、Econometric Society終身フェロー。専攻は国際金融論、ゲーム理論。積極的な金融緩和論者として知られる。

 

[*8]川島武宜
=(かわしま たけよし、1909年(明治42年)10月17日 – 1992年5月21日)。日本の法学者、弁護士。専門は民法、法社会学。1979年学士院会員、1991年文化功労者。

 

[*9] 『イスラームの日常世界』
=(岩波新書、1991年)

 

[*10]井口基成
=(いぐち もとなり、1908年5月17日東京都 – 1983年9月29日同地)。日本のピアニスト・ピアノ教育家。妹の井口愛子(後に佐藤愛子)と、妻の井口秋子もピアニスト・ピアノ教育家という音楽一族。