対談

【収録 2013年6月21日(金)】

第8回貨幣が生まれた時~貨幣から語る世界経済史~ 1 / 5

明治大学政治経済学部准教授

飯田 泰之 氏

日本の経済学者、エコノミスト、明治大学政治経済学部准教授。株式会社シノドスマネジング・ディレクター。財務省財務総合政策研究所上席客員研究員。専門は、経済政策・マクロ経済学。
1975年、東京都生まれ。東京大学経済学部卒業、東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。2003年5月から2005年3月と、2007年4月より内閣府経済社会総合研究所客員研究員を務め、参議院事務局特別調査客員研究員、駒澤大学経済学部現代応用経済学科専任講師・准教授を経て、2013年4月より明治大学生時経済学部経済学科准教授に就任。
著書に、『経済学思考の技術―論理・経済理論・データを使って考える』(ダイヤモンド社、2003年)、『歴史が教えるマネーの理論』(ダイヤモンド社、2007年)、『飯田のミクロ』(光文社新書、2012年)、『世界一わかりやすい経済の教室』(中経文庫、2013年)などがある。

貨幣の始まりと金融政策

川井:

本日は、遠いところまで足をお運びいただきありがとうございます。
実は私の祖先は、江戸時代から奈良町に住んでいて「鍵屋」という屋号の両替屋でした。そういう意味で、私が金融や不動産に興味を持つのは、ある種、祖先からの血や文化が関係しているのかな、と感じています。
そこで貨幣発祥の地である奈良に来られたということで、本日は貨幣と金融政策のお話を中心にお聞きしたいと思います。
どころで、昔の人は、どうやって、お金をうまくまわすか。今でいうところの、金融政策の知恵みたいなものを、どうやって手に入れたのかという点について教えていただきたいと思います。
例えば、歴史的に有名な金融政策に、徳川吉宗の改鋳がありますね。

 

飯田:
そうですね。元文改鋳[*1]。吉宗というと享保というイメージですが、経済政策の本丸は元文年間と言って良いかもしれない。

 

川井:
吉宗の、あの貨幣改鋳はすごく評価も高く、吉宗が名君の誉れが高いのも、おそらく、あの政策が良かった事ためと思われます。このような現代にも通用する高度な金融政策の知恵はどこから来ているでしょうか?

 

飯田:
これには結構、明確な出典があると思います。
一つは、中国春秋時代の斉の国に、「君知らず也管鮑(かんぽう)の交わり」で有名な管仲[*2]という名宰相がいました。その管仲の業績と考え方をまとめたのが『管子』です。『管子』の中に原型があるのが後の中国の経済政策の中核を担う「糶糴斂散之法」です。現代風に言うと裁量的な金融政策の手法に関する解説ですね。まぁ、漢字が異常に漢字が難しくて僕は書けないですけど(笑)。

 

川井:
チョウテキレンサンって、初めてお聞きしました。どんな意味なのでしょうか。

 

飯田:
糶糴(ちょうてき)は「売る、買う」という意味で、斂散(れんさん)は確か、「集める、散ずる」みたいな意味です。糶糴斂散之法とは、単純化すると豊作の年には政府が米を買い上げ、凶作の年には安く売ることをいいます。中国は、もともと貨幣自体が商品貨幣[*3]ではなかった、と僕は思っています。典型的なのは子安貝です。子安貝はどう考えても、何の役にも立ちそうもないものです。子安貝は、今の山東省の辺りの海でしか取れないので、それをなんとか集めてきて貨幣とした。ただし、数に限りが有るので、乱発できない。貨幣として取り扱うに、ちょうどいい大きさですしね。そういう意味で、西洋の、例えば、麦や牛やGold「金」といった商品貨幣とは、ちょっと出自が違いますね。

 

川井:
そういえば「貨幣」の貨という文字は貝が化けると書きますね。
子安貝というくらいですから、多産と豊かさを祈る宗教的な呪術性のあるものだったかもしれませんね。形も女性器を象徴するようなエロテックな形ですし。
ところで、この貝は日本の租庸調みたいに、地方から納められたものですよね。お話をお聞きすると、貨幣と税とは密接に関わっていますね。
その子安貝を皇帝に納めると、それが税として認められて、それが流通し始めるということでしょうか。

 

飯田:
そうです。中々手に入らないめずらしい貝ですと価値を保つために便利だったからです。ちょっと貝が貯まって多すぎるなと思ったら、政府は貝の在庫を放出して調整します。当時は債券オペレーションなんてなかったので。

 

川井:
貝をため込んで、ものと交換するということですか。

 

飯田:
そうです。反対の場合は、米を放出して貨幣である貝を回収しないといけない。
反対に、米が余りすぎて、米の価格が下がり過ぎていると思ったら、保有している貝で米を買うわけです。
古代中国では、この糶糴(ちょうてき)と経済政策は同じ意味だったぐらい金融政策上の売りオペ、買いオペが政策の中心課題だったのです。ずっとその状態が続いた理由は、やはり中国は、ずっと法貨、法律上の貨幣、または権力によって押し付けられる貨幣制度の意味合いが強かったからだと思います。

 

川井:
皇帝は、何を貨幣とするかを決める事が出来たわけですね。確か、刀の形をした銅銭もありましたね。それは、いつ頃なのでしょうか。

 

飯田:

それは、まさに先ほどの管仲が製造したのです。斉の国の貨幣が刀貨です。始皇帝の秦の国は円貨、丸いお金です。その後、東洋で、丸い形のお金が主流なのは、おそらく、秦の始皇帝のときに円貨だったからという理由だと思われます。
日本の場合も貨幣は、もう純粋に外の文化として中国から入ってきています。唐銭の輸入が初期の頃です。唐から、貨幣そのものを輸入して貨幣流通か始まりです。
おそらく皇朝十二銭[*4]の初期です。
まず、皇朝十二銭から話しましょう。唐の国に貨幣というものがあると、どこからか学んで、遣唐使か遣隋使で日本に入ってくるのです。ところがそれは、すごく便利なものらしいと、鳴り物入りで入ってくるのですが、なかなか日本では普及しない。
最初につくられたのは富本銭という「銭」なのですけれども殆ど流通していない。
次に708年に和同開珎ができます。その後の皇朝十二銭もことごとく駄目。これら日本の古代貨幣が、なぜ流通しなかったのか、いくつか説があります。
一つは、日本の当時の朝廷は「糶糴」が分かっていなかった。つまり、貨幣は何かの資産との交換として渡したり、政策として出したり、引っ込めたりしているから価値があるので、ただ、「はいよ」と言って渡しても、変な金属片をもらったとしか思わない、だから流通しなかったのだという説です。もう一つは、鋳造技術が低くて偽金をつくるのが簡単過ぎたという説。
どちらが正解なのか分からないです。かつては、貨幣はやはり商品流通に使えないので全然駄目だったという説が有力だったのです。ところが、最近の研究ではどうも畿内ではそれなりに流通していたといわれています。

 

川井:
それです、そこです。
『古事類苑』[*5]という古文書の百科事典があるのですけれども、その「物価」の項目には、東大寺文書が記されています。
最初、東大寺に収められているものは米や薪や味噌などの現物でした。ところが、50年目ぐらいになってくると、銭がその貢ぎ物の中に入って来ます。ということは、東大寺が銭を受け取るようになってくると分かるわけです。つまり、貨幣が流通しているから、東大寺の方も荘園から納められてくる銭を受け取るわけです。そのお金で都市部では、ものを買っているというのが分かってきます。
「これが物価というものだ」と、古事類縁は解説しているわけです。

 

飯田:
それはすごく重要です。日本における貨幣が法貨、つまり権力貨幣であるということが、よく分かる。朝廷の権力がしっかりと及ぶところ、つまりは畿内では流通するのです。商品貨幣だったら別に関東でも流通してもおかしくない。しかし、まったく関東では出てこない。当時の関東は朝廷の支配が及ばない、まあ畿内から見たら、人外魔境みたいなところですから(笑)

 

川井:
通貨は銅で出来ているじゃないですか。私からすると、東大寺の大仏は銅で出来上がっています。ものすごい大量の銅で、どこから手に入れたんだろう。
埼玉県に聖神社(ひじりじんじゃ)[*6]というお宮がありますが、そこで銅が見つかって、その銅の塊を朝廷、奈良に持ってきます。それが租庸調の租だったと思われます。そこから和同開珎をつくり始める。元明天皇が奈良、平城に遷都しようとしたのも、その銅が見つかったからだと言われています。
ということは、明治の初めではないですけど、最初に政府をつくってマネタイズしたことが平城京をすごく大きなまちにした理由なのではないのかというのが、いま私の予測なのです。

 

飯田:
貨幣が流通するためには、偽造ができないことが重要です。
すごく面白いのが、偽造を難しくする一番いいポイントは、材料を普通は手に入らないものにすることなんです。当時は工業をやっていないし、軍艦をつくっていないので、銅は大したものではないのですよ。もう鉄の時代なので武器にもならない。ある意味、銅は銭をつくるためにある。幸い、日本は銅には、すごく恵まれているんですね。
時代が飛びますが、オランダが、なぜ日本との貿易を絶やさなかったかというと、イギリスに、たびたび貿易封鎖を食らい、オランダは銅を買うところがない。だから、なんと日本から銅を輸入しているんです。もちろん美術品とか刀剣も重要な輸出品ですが、一番輸入していたのは、対オランダではとにかく銅です。日本産の銅は、はっきり言って遠いので輸送を考えると損なんですけど、オランダの場合は、イギリスに封鎖されていると、もう日本からしか買うところがなかったのです。
というわけで、日本は比較的、鉱物資源には恵まれている国だったんです。

 

川井:
さっきのお話で埼玉県、関東も銅が出たと思うのですけれど、結局、技術を持っていないから、それを貨幣に変えられなかったので流通しなかったのでしょうか。

 

飯田:
もう一つは、やっぱり王権が及んでいないので。
その貨幣の価値を担保する何か、例えば、一番簡単なのは蓄銭叙位令[*7]です。官位と交換できる、または何らかのかたちで負担とか、荘園へ納めるときに銭で受け取り、それを朝廷、または権力に対して支払手段として用いることができるんです。
ですが、当時の関東だと、このような支配はおそらくは全然、及んでいないのですね。だいたい中央政府に対する地方政府、国司・国衙、具体的には府中とか、東京だったら国分寺とかという名前になっていたところは、一応、中央の支配が及んでいるかのようになっているのですけど…

 

川井:
貨幣というのは、ある種の情報メデイアでもあるので、交換される場合になにがしかの合意や象徴性、ある種の共通認識が必要だったのかもしれませんね。宗教性や価値観の共有といった。王権の支配が及んでいる場所でしか、貨幣が使用されていないとしたら、そこには共通するなにがしかの世界観が存在したから、といえるかもしれません。実際、「和銅」という漢字をどれだけの人が読めたのか、という事もあるでしょうし。

 

[*1] 元文改鋳
=江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が、町奉行・大岡忠相らの提案により行った改鋳および貨幣吹替え政策。旧金から純金量を約44%低下させ、大幅な増歩を付けて新金と交換させた結果、通貨の急激な増加につながり当初は激しいインフレーションに見舞われた。しかし、この貨幣の吹替えが当時の経済状況に即したものであったことから、やがて物価および金銀相場は安定し、元文小判は広く普及、80年以上の長期間にわたり流通することとなった。
[*2] 管仲
=(かん ちゅう、?~紀元前645年)中国の春秋時代における斉の政治家。宰相として桓公に仕え、覇者へと押し上げた。「君知らずや管鮑の交わり」とは、管仲と同じく斉の政治家であった鮑叔との深い友情を称えた言葉であり、『管子』とは、管仲に仮託して書かれた法家の書物のこと。
[*3] 商品貨幣
=商品としての実体的な価値を持つ貨幣のこと。古代は代表的なものとして貝や穀類、家畜、布などが交換されたが、後に社会が発展していくと簡単に価値が失われない貴金属に固定されるようになった。
[*4] 皇朝十二銭
=和銅元年(708年)から応和3年(963年)にかけて日本で鋳造された、和同開珎から幹元大宝までの12種類の銅銭の総称。
[*5] 『古事類苑』
=明治政府により編纂が始められた類書であり、明治29年(1896年)から大正3年(1914年)にかけて刊行された。古代から慶応3年(1867年)までの様々な文献から引用した例証を分野別に編纂しており、日本史研究の基礎資料とされている。
[*6] 聖神社(ひじりじんじゃ)
=埼玉県秩父市黒谷に鎮座する神社。慶雲5年(708年)に自然銅が発見され、和銅改元と和同開珎鋳造の契機となったとされている。
[*7] 蓄銭叙位令
=和銅4年(711年)に、銭の流通促進と政府への還流を計って施行された法令。一定量の銭を蓄えたものに位階を与えるよう定められた令だったが、後に蓄銭が地方での銭の死蔵を招いたため、延暦19年(800年)に廃止された。