対談

【収録 2013年6月21日(金)】

第8回貨幣が生まれた時~貨幣から語る世界経済史~ 2 / 5

紙幣、信用通貨のはじまり~裏付けがないということ~

川井:
最初の質問に戻りますと、結局、古代の王権に基づく国家の「権力貨幣」制度の時代に作られた金融政策のノウハウが、江戸時代の吉宗の改鋳に活かされたという事なのですね。ところで、その江戸時代は商業がすごく発達しますが、その時代の貨幣制度について少し教えていただけませんか? 古代とも現代とも、全く違う制度のように思うのですが、先生から見られたら江戸時代の、貨幣がばらばらにある状況、通貨が統一されていないというところは、どう見えるのですか。

 

飯田:
もともと関西は、いち早く戦国時代に、伊勢商人の間で手形取引が主流になっていた場所なのです。

 

川井:
紙の証文、しかも民間人が発行したものですよね。

 

飯田:
ええ。それがもう普通に貨幣のように流通していた点で、関西は完全な先進地域なんですね。ですから、関西の幣制は基本的に、早くに裏付けのない紙の信用通貨になってしまっています。

 

川井:
伊勢松阪の山田羽書[*8]ですよね。元々、羽書をつくり始めた伊勢の「御師」って、お伊勢さんに仕える人達です。江戸時代に入ってもあの地域は、幕府の保護下にあって、町奉行が置かれています。幕府貨幣との兌換を前提として、この羽書の取引が続いていきます。実は、奈良町も奉行所がありました。伊勢山田と同じです。
そして、お伊勢さんにあたる春日大社には春日の御師、神に奉仕する人達がいます。その人達が御札を全国に売って歩いていました。最初にお話しした「鍵屋」、我が家の商いもそれに付随した事業だったのかな?と感じるのです。
ところで、裏付けがない信用通貨、とはどういうことでしょうか。

 

飯田:
銀とか銅とかは、別の用途に使われるため、それそのものに一定の価値があるにはある。しかし、紙には、そのような価値は全くありませんね。そのような無価値の証文が一定の効力をもって誰かから誰かに手渡されていく訳です。しかも、中央銀行がない、自由発行紙幣状態になっているわけなのです。
その一方で、関東は、やはり商品としての価値があるか、何らかの力の裏付けがないと貨幣が通らないのです。その意味で、貨幣自体が自然と先進地域と後進地域で分かれたのだと思うのですよ。関西・畿内とその他の地区は、歴史的な点で様々に異なるのです。例えば、『源氏物語』の須磨・明石が典型ですけれども、須磨・明石で、もう言葉が通じないというシーンが出てくる。

 

川井:
なるほど。つまり、源氏物語の時代には、明石ですら朝廷の権威が及ぶ畿内ではなかった、ということですね。現在でも、これだけ標準語が広がっていますけれど、ちょっと年配の東北の人の言葉は分からないというのもありますものね。

 

飯田:
鎌倉時代になってもその傾向は変わりません。源頼朝の配流先は伊豆です。伊豆に行かせただけで中央から排除したと見なすことが出来るわけです。

 

川井:
そう思うと、義経が東北へ逃げるじゃないですか。あれは、もう本当に国外逃亡ということでしょうか。

 

飯田:
そうなんです。ぽんと、中尊寺に代表される奥州藤原氏の支配地域だけ飛び地的に文明の光が届いているんですよね。あそこだけなんです。関東も、やっぱり府中から国分寺にかけての、あの一帯だけ、国衙周辺だけが、ちょっとだけ中央とつながっているんですが、それ以外は、もう。

 

川井:
東北では和鉄が出るじゃないですか。復興のお手伝いで、岩手へ行くようになって、蕨手刀(わらびてとう)[*9]というものに出合いました。
蕨の形をしている手刀で、古代遺跡では岩手付近で数多く発見されているものです。古代の和鉄の技術でつくられている武器ですが、その蕨手刀が、正倉院の御物の中に納められています。そう考えると、岩手のあの辺りの人たちと朝貢文化があったのかなという気はします。それは、東北からすると朝廷は別の国だったという感じでしょうかね。
先ほど「裏付けがない」というお話がありました。
普通は、紙で出来た証文なんて誰も信用しないです。でも、関西では通用する。
一方、江戸幕府は、お伊勢さんとその付近は、京都や大阪と同様に保護下にあって奉行所が置かれています。そういった、関西の金融取引習慣と、江戸をはじめとして、それ以外の処との間の商取引はどうなっていたのでしょうか。

 

飯田:

その違いをなくそうとしたのが、田沼意次[*10]です。田沼が明和五匁銀というものをつくるのです。この五匁銀ができたことによって、いわゆる小粒をはかりで測ってという取引を関西はしなくなっていく。それだけだったらまだ、関西は銀使い、関東は金使いなんですけれども、決定的に、その状況を動かしたのは南鐐二朱銀という貨幣です。二朱は完全に関東・江戸の幣制ですから。

 

川井:
これは何で出来ているのですか。

 

飯田:
銀銭です。銀銭ですけれども、南鐐二朱銀は奇跡の貨幣で、まともに銀が入っていなかったりするんです。南鐐とは「ベスト」という意味なので、銀の純度は高いんですけれども、どう考えても軽すぎるんです、打目が。

 

川井:
それではベストではないですよね。

 

飯田:
これが入ったときに日本の幣制は統一された。つまりは、両、分、朱、文という、いわゆる幕府の体系で全国の幣制がそろったんです。

 

川井:
尺度の軸がそろって、この軸に合わせて残りの人たちの通貨が収斂されていくということですか。

 

飯田:
そうです。

 

川井:
大坂とそろう。米相場と合うし、江戸の侍の人たちの禄とも合う体系ができたということですね。

 

飯田:
そうです、見合いがよくなる。そのおかげで、そこからが日本は一つの幣制になる。

 

川井:
それは、いつごろの事ですか。

 

飯田:
1780年ぐらいですかね。

 

川井:
明治維新の100年前ぐらい。それまでは、ばらばらだったわけですか。

 

飯田:
ばらばらです。

 

川井:
それって、国際貿易においてドルの軸ができたようなものですよね。

 

飯田:
そうそう。日本の中で国際通貨ができたんです。「天領」という言い方は当時はしないのですけれど、やっぱり天領(幕府直轄領)ぐらいでしか、そういったお金は流通していなかったようです。
では、直轄領以外では、どうやって経済活動が行われていたかというと、銭と藩札です。例えば、「憲法」草案の由利公正[*11]が福井藩、越前から江戸に出張するときに、餞別だと言って上司から一分銀をもらった。そのことを、大変珍しいものをもらったと日記に書いている。もちろん藩札は福井藩を出てしまったら意味がないですから、餞別は一分銀ということになるのですけど。天領と、もう一つは、藩札をつくるほどではない小さい藩を除くと、やはり基本的には藩札が多かったみたいですね。特に雄藩と呼ばれるところが。
川井:
ほんとの地域通過ですよね。しかし、地方でほんとうにばらばらだったのですね。

 

[*8] 山田羽書
=慶長15年(1610年)に伊勢山田で出された、現存最古で日本最古とされる民間発行の紙幣。
[*9] 蕨手刀(わらびてとう)
=日本の鉄製刀の一種。6世紀から8世紀にかけて東北地方を中心に製作される。太刀身の柄端を飾る柄頭が、蕨の若芽のように渦をまくのがデザイン的特徴。
[*10] 田沼意次
=(たぬま おきつぐ、1719年~1788年)江戸時代中期の旗本、のち大名。遠江相良藩の初代藩主。幕閣において側用人、老中と昇格し、数々の幕政改革を手掛け「田沼時代」と呼ばれる権勢を築いた。幕府の財政赤字を食い止めるため、株仲間の結成や鉱山開発、印旛沼の干拓、外国貿易の拡大などの重商主義政策を採った。
[*11] 由利公正
=(ゆり きみまさ、1829年~1909年)幕末・明治期の財政家・政治家。福井藩出身。福井藩の従来の消極政策を廃し、藩札の発行や生糸の専売制などの積極的な経済政策により藩財政を再建した。明治維新後は明治新政府に召集され、太政官札の発行、五箇条の御誓文の原案作成などに携わった。