対談

【収録 2013年6月21日(金)】

第8回貨幣が生まれた時~貨幣から語る世界経済史~ 3 / 5

貨幣と税との関係について

飯田:
古代中国には、冊封体制があるじゃないですか。日本の朝廷は中国の冊封体制を国内バージョンで、まねて出来上がったものです。中国は面白くて、この冊封体制をやった国は、もちろん高麗、越南(ベトナム)、中華文化圏の国。中国は冊封した国に対して、自分たちと同じことを国内でやれという知識を与えてくれる。
さらには、関東の豪族としては、最終的な土地の処分権は、もう完全に自分が握っている。朝貢程度の大したことのない負担であれば中央に従ってあげるけれども、本当の負担が来ると反抗してしまう。
では、日本は、こういった分権体制がどこまで継続していたのかというと、僕は江戸時代まで、ずっとそうだったと思っています。

 

川井:
なるほど。江戸時代のばらばら度合いとは、違う意味で統一されていない訳ですね。

 

飯田:
貨幣制度を統一し、国内の商業活動を発展させるのに尽力した田沼意次ですが、彼が失脚した一番の理由は、彼が全国課税をやろうとしたことです。惣戸税というんですけれども、惣は物、心で、いまで言う「総合」の「総」の意味もあるので。

 

川井:
「村」とかの意味ですよね。

 

飯田:
そう。惣戸税は建物1軒当たり銭何文みたいな、すごく薄い税金なんですけど。

 

川井:
いまで言う固定資産税みたいな感じでしょうか。

 

飯田:
固定資産税ですね。それをやろうとしたら大名たちは、びっくりしてしまった。つまり、自分の懐に手を突っ込まれるということなので。相模国などでは実施されはじめていたんですけど封建諸侯組は松平定信を旗頭にして田沼に対して徹底反抗するんです。田沼にとっては全大名が敵。味方は将軍の鶴の一声と幕府官僚組だけなんですよね。そうしたら天変地異が続いて、それどころじゃなくなった。

 

川井:
結局、中央集権型か分権型かの戦いが、そこで起きたということでしょうか。

 

飯田:
結局、中央集権型が負けるんですけれども。さらに言うと、豊臣家と徳川家の争いも、まったくそれと同じ構図で、豊臣は中央集権なんです。

 

川井:
そういえば、豊臣は国中を測量し、上田・中田・下田に区別する太閤検地をしましたよね。

 

飯田:
そうなんです。検地して大名たちを大坂に集住させようとする。これをやられると、なかなか諸大名には厳しいものがありまして、要は、豊臣政権から固定給をもらう貴族という階級になってしまうわけですよね。

 

川井:
でも、それって、ある意味、近代国家の始まりですよね。

 

飯田:
織豊政権はあそこで、近代まで行かなくても、近世後期の絶対王権に近づきつつあった。しかし、これは地方の大名にとってはとうてい容認できない。そこで封建諸侯組は徳川家康を頼みに団結する。

 

川井:
豊臣家は中世ヨーロッパの巨大王朝であるハプスブルク王朝[*12]をつくろうとしたわけだ。なるほど。

 

飯田:
確かに。いわゆる、当時の「ヨーロッパ型の中央集権で王権が強い国」になりつつあった。たぶん石田三成は、そのような中央集権化をやりたかったんだと思うんですよね。

 

川井:
でも、太閤検地って、いまでも機能していると思うんですね。特に路線価とか。
私がいつもよく言う、路線価は日本しかないんですけど、路線価制度というのは、やっぱり太閤検地が根底にあって、前の道路とかで税金を取ろうとするというか、相続税につながるものを国が決めるじゃないですか。国が価値を決めるという意味で、すごい仕組みだったと私は思うんですね。

 

飯田:
国富の測定の方法については、『管子』と、秦の国に商鞅[*13]という大臣がいたんですけれども、その商鞅の記録があります。商鞅の改革をした商鞅の事績でも、徹底的に国の測量の仕方だけが延々と述べられています。

 

川井:
そこは農業からの地産力を測ろうとしているわけでしょうか。

 

飯田:
そうです。当時はマルサスの罠[*14]状態。つまりは、生産力で人口が抑えられるので、それが、そのまま人口統計にもなってしまうし、人口から徴兵できる数が分かるし、それで国力が分かる。国力が分かると、どことなら戦争ができるのかが分かる。

 

川井:
あ、なるほど。

 

飯田:
中国の場合は、ちょっと何か突発的に秦の国が戦争が上手になってしまった。やはり農本主義の国は戦争に強いんです。中国の古代は斉の国と秦の国の二カ国の、どちらが覇権を握るかということだけで決まって、あとの国は規模的に大したものではないんですよ。

 

川井:
五胡十六国[*15]みたいなものですね。中国では土地から上がってくる税収と人口が国力の基本だったわけですね。

 

飯田:
中国古代の、いわゆる戦国七雄と言うんですけど、本当は二雄なんですね。斉の国は完全な商業国です。不思議なもので商業国は戦争に弱いんですよ。圧倒的に武器の力、例えば、いわゆるクロスボウ・ボウガンは斉の国の発明で、戦争も強いはずなのに、実は戦争には結構弱いんですよ。

 

川井:
生活水準が豊かになると、みんな死にたくないんでしょう。陸軍でも大阪の部隊は弱く、東北の軍隊は勇壮だった、という伝説がありますよね。

 

飯田:
軍隊で出世するしかない貧農の三男四男坊と、丁稚からでももしかしたら大商人になれるかもしれない者では,戦争の場でのインセンティブがまるで違いますからね。

 

川井:

ところで、アンガス・マディソン[*16]という、世銀の研究者がいましたよね。1820年、日本では江戸時代にあたるころから、2000年ぐらいまでの約200年間という長期間にわたって、世界の経済成長を比較する研究をされた方です。
この調査報告を読みますと、産業革命以前の江戸時代の日本は、同時期の中国と比較しても、国民一人あたりのGDPが高い。イギリスやフランスといった、すでに産業革命に成功し、近代化に向かっている国ほどは高くないけれども、当時の大国である中国、インドと比べても、1.3倍くらい生産性が高い状態でした。それは、実は貨幣制度、流通制度が整っていて、商業ベースで発展していたからではないかなと個人的には考えているのですけれど、その辺はどうお考えですか。

 

飯田:
それについては大変面白い話があります。商業の流通が、こんなにスムーズな前近代国家は希だった。もちろん貨幣もそうだし、流通網が非常に細かく整備されていた。これが日本の特徴的なところだと思います。一方中国では結局、全国的な物流のネットワークというものが未整備なまま近代に突入する。

 

川井:
日本と、中国・インドとの違いは、商行為による流通ネットワークの整備やそれがもたらす生産性向上みたいなものが、一人あたりGDPを押し上げていた、ということになるのでしょうかね。

 

[*12] ハプスブルク王朝
=ドイツ系の貴族の家系であったハプスブルク家が、中世の血縁制度を利用した政略結婚と血族結婚の上に築いた、中世ヨーロッパの巨大王朝。
[*13] 商鞅
=(しょう おう、紀元前390年~紀元前338年)中国の戦国時代の秦国の政治家・将軍・法家・兵家。孝公に仕え、変法と呼ばれる富国強兵の国政改革を断行し、後に法治主義の統一国家としての秦の基礎を作った。
[*14] マルサスの罠
=イギリスの経済学者トマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus、1776年~1834年)が著書『人口論』の中で提唱した経済理論。「幾何級数的に増加する人口と算術級数的に増加する食糧の差により人口過剰、すなわち貧困が発生する。これは必然であり、社会制度の改良では回避され得ない」と述べられており、結果として人類は食糧難に陥り、やがて人口は減少し、最終的には需要バランスが保たれるとされている。
[*15] 五胡十六国
=中国・漢の興起から北魏による華北統一までの期間に、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称。五胡はこの時代を担った異民族(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)のことを指す。
[*16] アンガス・マディソン
=(Angus Maddison、1926年~2010年)イギリスの経済学者。フローニンゲン大学名誉教授。経済史・経済発展論専攻。著書に『世界経済の成長史1820年~1992年――199ヵ国を対象とする分析と推計』(政治経済研究所訳、東洋経済新報社、2000年)や『経済統計で見る世界経済2000年史』(政治経済研究所訳、柏書房、2004年)がある。