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2016年07月01日(金)

「日本的革命の哲学」

人から、明恵上人の「あるべきようは」に関する歴史的意義について問いかけがあった。

 

明恵の思想の歴史的意義を記した本で、有名なところは3冊有る。

 

(1)白洲正子 歌人として芸術的な分析

(2)山本七平 思想家として日本の歴史上での評価

(3)河合隼雄 世界史上希有な「夢記」という著作を通じて人類共通の心の分析

 

である。

 

今回は、(2)の山本七平氏の「日本的革命の哲学」について、少し触れてみたい。

山本七平は、本田勝一と論争したため、リベラルな研究者からは保守派と見なされ、一段下に見られている。

極めて残念な事だ。彼にはいくつもの名著があるが、中でもこれは日本の思想史上、画期的本であると思う。

 

私たちが学ぶ教科書の日本史では、鎌倉時代とは「源頼朝が鎌倉に幕府を開く」「執権北条家が実権を握る」「承久の乱」「御成敗式目」の固有名詞の羅列である

ところが、山本はこの一連の出来事を、日本における「革命」である、と位置づけている。

 

この事件は、北条泰時という武士(当時の民間人)が武力を持って、伝統的支配階級である皇室・天皇を打ち破り、主犯の上皇を島流し、今で言う無期懲役に断罪したことを世界史と比較して分析したのである。

 

そして、その後北条泰時は「式目」という現代で言う法律を制定する。

御成敗式目とは、幕府に持ち込まれる土地等の財産管理について、これまでの裁定を積み重ねて一般法にした指針にあたるものだ。

つまり、古代国家が制定した律令という法体系を破棄して、新しい武家による法体系の時代となった「革命」を起こした人物であると、定義しているのである。

 

自分たちの経験に引き寄せて考えてみよう。

法律を変えること=「構造改革」を考えてみるとわかる。

この出来事を通じて、日本社会は古代から中世へと変化し、戦国時代以降もこの「式目」の思想が武家諸法度へと引き継がれていくのである。

ところで、明恵はこの事件とどう関係するのであうか。

 

北条泰時は、天皇や上皇を処分することに、大変な重荷を感じていたのである。

日本の時代を大きく変え、これまでの古代世界、宗教国家から中世社会に代わるためには、この国の神仏=あの世を司る人々を処分しなくてはならないのである。

自分のあの世、自分の一族のあの世、ひいては武家社会の精神的支柱とすべき事はなんなのか。

興福寺・東大寺を焼き払った平家はあのように滅亡したではないか。

 

彼の心は千々に乱れる。その時彼を救ったのが、明恵なのである。

明恵は元々幕府にたてついた後鳥羽上皇の支援を得て高山寺を開山している。

つまり、泰時にとっては敵方であった。

しかし、一目会ったときから泰時は明恵の人間性に惹かれ、しばしば高山寺で教えを聞くようになるのである。

その時、泰時が明恵から与えられた言葉が「あるべきようは」なのである。

 

天皇家であっても、国内が混乱させるような良い政治が行えないのであれば、それに代わって「まつりごと」を司ることも大切である、と気がつき始めるのである。

この事をもって「まつりごと」が古代的儀式「祭事」から、社会を束ねていく「政治」へと変化していくのである。

 

どうして明恵にこのような力があったのか。

彼の力の根源はどこにあったのか。

 

それはまた、次の機会に。

 

【facebookタイムラインより】2016.07.01(金)

 

 

 

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