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2017年06月23日(金)

大工と番匠

奈良町は、歴史オタクにとって、最高の空間である。

 

 

「番匠」という建築技能史を読んでいると薬師寺と法隆寺の番匠の活躍話が出てくる。奈良が、戦乱や空襲の災禍に遭わなかったからということもあるだろうが、古文書研究が奈良では進んでいるからだろう。

 

 

番匠とは、今で言う大工さんのことである。

 

大工とは「おおいのたくみ」という尊称で、奈良時代には最高指導者のことだった。

今で言う棟梁にあたるだろう。ちなみに次長は、少工「すくなたくみ」と呼ばれていた。

 

 

この薬師寺の工事に関わる番匠の住まい一覧が、15世紀の古文書に載っている。
( )の中は大工の頭数である。

 

招提(16)

今在家(3)

六条 (2)

大安寺(3)

京終 (3)

辰市 (1)

 

という具合である。

 

これを読むと日常の空間が急に時を超えて、過去の時間に移動したような気分になる。

 

今から600年の時を超えてここ奈良町・京終・大安寺に住んでいた大工の〇〇が、薬師寺の修理に当たっていたのか、と思うと彼らが急に近しい人に思えてくるのである。

 

この同じ場所に立つ彼らは、どんなものを食べ、どんな暮らしをしていたのだろうか、と。

 

 

奈良町の番匠は実に働き者で、いろんなところで活躍している。

 

伊勢に行ったり、吉野に行って寺を修理したり。
応仁の乱の混乱期には大和武士に引っ張り出されて、河内や奈良で城を築いているのである。

 

 

 

戦国時代の城の建設には奈良の番匠が欠かせない存在だったのだ。
それが、太子講という団体組織を作って、一つの勢力となっていく。
京都にある二条城も、奈良と極めて縁が深い。奈良の歴史は決して古代ばかりではない。

 

この町は、ずっと歴史の最先端だったのだ。

 

 

まもなく、
「日本の伝統建築技術と木の文化の未来」の講演会とシンポジウムがある。

しかしここでは、奈良町の中世の大工集団の魅力にまで、触れる時間はない。

 

 

歴史の旅は、まだまだ続いていくのだ!

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